新聞記事(日経新聞2012年12月6日)

日本に捧ぐ インドの調べ

◇各地に民族楽器シタールの教室 人格表す音に魅力◇ アミット・ロイ

 

 私はインドの民族楽器シタールの演奏家として日本で活動している。1959年、インドのコルカタ(当時はカルカッタ)に生まれ、88年に来日した。以来、日本各地でインド音楽の教室を開き、今では孫弟子もいる。

 

 高卒後住み込みで練習

 

 私の父はよく知られたシタールの製作者だった。「ヒレン・ロイ」という父の名はそのままシタールの有名ブランドになっており、世界中で広く愛用されている。

 幼い頃から、父に付いて楽器製作と演奏を学んだ。母もシタールの奏者だった。最初は楽器製作の方が面白かったが、次第に演奏に興味が移った。

 高校卒業後の78年、 生涯の師であるニキル・ベナルジー先生に入門し、住み込みでシタールを教えてもらうようになった。先生はビートルズのジョージ・ハリスンとも交流があった ラヴィ・シャンカールと並び称された世界的奏者だ。演奏は情熱的であり知的。哲学や文学、自然思想などあらゆる分野に精通した人だった。

 シタールは学校で学ぶものではなく、個人レッスンが基本。毎朝4時半に起き、5時から練習が始まる。食事や散歩などをはさみ、夕方から再開。毎日少なくとも6時間は練習する。先生の家は近所だったのだが、「自宅からの通いでは甘えが出てしまう」と考えた。

  先生は視力が弱かったので、散歩の時はいつも私が手を引いていた。優しいが妥協のない人。私が課題ができるようになるまで丁寧に教えてくれた。大学進学を あきらめて音楽一本に絞った私も必死だ。今でも毎週のように、先生が夢の中に出てくるほど、当時の教えは体に染みついている。

 ある日、先生の自宅にインドの有名ミュージシャンが集まってパーティが開かれた。タブラ奏者のアニンド・チャタルジーといったあこがれの人ばかり。彼らを前にして演奏した私は人生で一番の緊張を味わった。

 82年にコルカタのホールで初めてライブ演奏を開催した。これがシタール奏者のデビューとなった。「銀のように輝く旋律」と褒めてくれたインドのメディアもあった。

 87年、先生が亡くなった。私はラヴィ・シャンカールの最初の奥さんだったアンナプールナ・デヴィ先生に師事するようになる。アンナプールナ先生はコルカタから1700kmほど離れたムンバイ(当時はボンベイ)に在住。年2回ほど、2週間の泊まりがけで先生の家に教えを請いに出掛けた。

 

 結婚して名古屋に拠点

 

 この頃、日本からコルカタに留学していた妻と知り合った。88年に来日。東京や大阪に住んだ後、90年に結婚して名古屋市に腰を落ち着ける。名古屋では当初、東京などに比べてライブの仕事が減ってしまったが、代わりにシタールの教室を開いて生徒に教えるようになった。その後、9293年には大阪と東京でも開設した。

 最初は数人だった生徒は次第に増え、今では60人ほど。20年間で数百人が学んだ。秋田から名古屋まで泊まりがけで来てくれる人、スイスやフランスといった海外からも私を訪ねてくれた人もいた。

 シタールは同じ弦楽器のギターと比べて、より表現力が高い。古典音楽を演奏しても即興の比重が高いから、演奏者の人格が音になって表れる。そんな魅力が日本人にも伝わったのだろう。

 今年311日、私はコルカタに里帰りしていた。家族や同行した日本人の生徒たちと過ごす憩いのひととき。しかし、日本から飛び込んできたニュース映像に言葉を失った。私の第二の故郷が大災害に見舞われたのだ。

 5年前、仙台市に教室を開設。毎月1回は出向いてきた。コルカタにも仙台の生徒がしていたが、テレビを見て泣き崩れてしまった。私の娘も涙が止まらない。13日に急いで日本に戻ったが、交通網が絶たれたため、6月まで仙台に行くことがかなわなかった。

 

 CDに思いを込め

 

 仙台には10人ほどの生徒がいる。幸いにもみんな無事だった。宮城県名取市出身の生徒は実家が流されたが、母親は無事だったという。少しホッとしたが、多くの方が亡くなり、家族を失ったことを思うと、胸が痛む。

 このほど、日本人の打楽器奏者2人と一緒に演奏したCD311」を出した。祈り、鎮魂、希望…..。様々な思いを込めた。売り上げは、被災地に義援金として寄付する。

 震災直後、コルカタでは私が日本在住だとみんな知っているから、街の人たちが私たちを気遣ってくれ、出国時の担当官も励ましてくれた。インドの人たちの思いも受け止め、私なりに役立てることがあれば活動していきたい。

 

2011126日 日本経済新聞 文化面掲載